わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。(詩編131編2節)
娘が出産・退院した後、乳飲み子(孫)と一緒に来て、しばらく一緒に生活することになりました。それから2ヶ月が経ちました。来た時は、一日の殆どを眠っていましたし、意識も茫漠とした混沌に見えました。創世記1章2節に、地は混沌であって…とある通りでした。しかし、神の霊が水の面を動いていた、とあります。天地創造と子どもの誕生が、孫のことで結び付きました。
娘は昔のアルバムを取り出し、自分が赤ちゃんだった時の写真を見ていました。娘の世話をしている私が、そこに写っていました。抱っこしたり、お風呂に入れたり…。その娘が、今はお母さんになっている、何だか不思議な思いでした。人の世は、こうしたことの繰り返しなのでしょうね。
孫は新生児ですから、全部してもらいます。寝かされたら、手足は動かしますが、まだ移動できません。泣けば、お腹がすいたのか、おむつを取り換えてほしいのか、眠いのか等、こちらが判断して真っ先に対応しています。「あおい」という名前の男の子ですが、やがて自宅のある神奈川県に戻ります。そうなると、コロナ騒ぎの今、あおい君に会うことが出来ないでしょう。成長したら、新生児の時の記憶は遠のき、私たちが「あおい君、~したんだよ」と話しても、「へえー、本当」と、言うに違いありません。それでも良いのです。
冒頭の聖句は、乳飲み子から幼子に成長した時のことです。泣き声で要求することから、言葉で気持ちを言えるようになっています。そして、母の胸に抱かれて眠る安らかな気持ちが表現されています。私の魂も、神様に対して、そのような幼子でありたいと思います。何が出来なくても、真っ先に必要に応えてくれる真の親こそ、天の父神様だからです。幼子のように信頼して、この身を主に委ねたい。たとえ色々なことで思い悩むことがあっても、母の胸にいる幼子のようでありたいものです。 (2020年4月24日)