今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、
神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたには
なおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。(マタイ6章30節)
これは主イエスの言葉ですが、野の草とは雑草のことです。要らないからと抜き取られて、翌日には炉に投げ込まれる雑草のことです。
ある時、昭和天皇がお庭を散策されていた時、側近の侍従が「ここから先は雑草です」と説明しました。一緒にいた植物学者の牧野富太郎が「陛下、雑草という植物はありません。それぞれにちゃんとした名前があります」と、そっと耳打ちしました。確かに、雑な草など一つもありません。たとえ今日は生えていても、明日は炉に投げ込まれるはかない命であっても、神は名を付けておられます。誰も気にも留めない、そんな野の草にさえ主イエスは目を留めておられるのです。今日は有っても明日は無い、そんな儚(はかな)いないものに対する限りない憐れみです。
もし、この雑草が人で、しかも私の事だとするとどうでしょう。雑な草などないぞ、ちゃんと名前があるぞ、と自己主張するでしょう。しかし、明日この命、私の命は終わるのです。そんな者にも神は、ソロモンの栄華以上に装ってくださっている、と主イエスは言われました。雑草や小さな花であっても、命の価値は同じです。あなたは価値ある者です。そのことが分からないから、明日の心配や思い煩いをするのです。何と信仰の薄い者でしょう。
そして、雑草という草はないように、雑用という用はありません。どんな小さなことも、心を込めれば雑用ではなくなります。また、害虫という名の虫もいません。そのように、野の草、小さな虫にも1つ1つ、それぞれ意味があります。そのことに気付くと、見える世界が豊かになります。
一日を一生と考え、朝人生が始まり、夜寝る前は人生の最期です。当たり前ではなく、一日一日が恵みです。一期一会の心で、出会う人一人ひとりを大切にして生きる、そこに素晴らしい出会いが生れます。そうしたすべての背後に、神が居られる事を忘れないようにしたいものです