機会(時機) を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。(エフェソ5章16節・新改訳)
コヘレトから知恵を学ぶために、ここまでの花かごを要約します。先ずは機会(時機=チャンス)を活かすこと。時と機会は誰にも臨むが、人間がその時を知らないだけだ(9:11,12)から。どうすれば時を見分けられるのか。主を畏れる信仰と祈りに導かれた知恵が必要。あの時こうしておけば良かった、と後で悔やまないためにも、時を見分ける知恵を主に求めたい。 何かをする時、その動機が利己的か利他的かを考える。自分の利益だけを追い求めているなら、結局は空の空に終わる。皆で分かち合える喜びかどうか。2:1-11でコヘレトは誰もが出来ない事業や快楽を求めたが8回も「自分のため」にしたと原文にはある。だから空しく、風を追うようなものだった、と述懐している罪とは、自分さえ良かったらそれでいい、とする考え方。自分さえ良かったら他の人がどうかは関係ない、とする利己的生き方が罪。しかし、誰もが自己中心。太陽の下(日の下)の地上では、すべての人が罪人。そんな地上から出た知恵には限界がある。この世の知恵ではなく、神の知恵に至らなければ、すべて空しい。だから、天からの知恵について聖書は記している。神の知恵であるイエス・キリストに至らねば、一切が空しいとコヘレトは述べている、と読める。
人間が罪人であるとは、真っ直ぐでなく歪んでいること、円満ではなく欠けだらけであること。だから、つい歪みを直そうとしたり、欠点を数えたりする。そんなことをするから空しい。変えられないもの(過去の事実と他人)と、変えられるもの(過去の受け止め方と自分)。何と、自分ではなく他人(特に家族)を変えようとしていることか。だから、トラブルが起きる。自分ではなく相手が問題と裁くから、解決しない。主イエスは、あなたは、兄弟の目にあるおが屑(小さなもの)は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太(大きなもの)に気づかないのか、と諭された(マタイ7章3節)。こうした点において昔も今も人間に変わりはない。歴史は繰り返すと言われるが、私たちも同じ過ちを繰り返す。そして死んで逝く。結局、平凡な毎日の繰り返しの中に喜びと満足を見出すこと、それも、神からいただく賜物だから。