何事にもがあり  天の下の出来事にはすべて定められたがある。 生まれる時、死ぬ時… (コヘレト3章1,2節)
*時=一定の期間、時期/時機の意。

上記2つの「時」は原語が異なっている。始めのは一定の期間、後のは瞬間的な日時。例えば、生まれる時。出産予定日が告げられても幅があり、その日とは限らない。死ぬ時も同じ。その瞬間の日時は分からない。それを決めるのは、人間ではないから。神は私たちに永遠を思う心を与えてくださっているが、それでも生死の時、愛憎の時、戦争と平和の時などを知らない。まさか…と言うのは、そのため。始めがあれば終わりもある。植える時と、それを引き抜く時がある。愛し合って結婚したのに、破局の時も来る。そうした様々な出来事を、コヘレトは見聞きし体験した。 それらをコヘレトは、14の相反する時として列記している。それらは、殺す時、癒す時=病原菌を殺す時or病気で殺される時と癒しの時との対(つい)になっている人には喜びと悲しみ、出会いと別れがあり、月にも満ち欠けがある。良い時・順境ばかりでなく、辛い時・逆境もあるが、神はすべてを時宜にかなうように美しく造り(3:11)、万事を益とされる。だが、その決定的な時を私たちは知らない。だからコヘレトは、9章11-12節:時と機会は誰にでも臨むが、人間がその時を知らないだけだ、と記す。時と機会は平等に臨むが、与えられた機会を逃さず好機(チャンス)に出来るか、みすみす逃してしまうかの違いが出る。後で「あの時こうしておけば良かった」と悔やむことも多い。コヘレトは災いを罠と受け止め、魚が運悪く網にかかったり、鳥が罠にかかったりするように、人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる(9;12)と記した。先のことは予測できないとしても、すべては神の手の中で起きている。その神は愛と赦しの主だから、必ず救いが与えられる。そこに拠り所があり、希望がある。

では主イエスは時に対して、どのように対応されたのだろうか。主がしばしば口にされたのが、「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2章4節)。それは父神が定められた十字架の死の時、復活の時のこと。主はいつも、父神の御計画に従って生きておられた。だから、わたしの時は…と言われた。私たちも主イエスのように、自分の死が栄光になることを信じたい。そして、自分の上に示される神の時を見分けたい。