ゆがみは直らず 欠けていれば、数えられない。 (コヘレト1章15節)
これは他の訳では、曲がったものは まっすぐにならずとある。「ゆがみ・曲がったもの」とは何?次の欠けは失われたもの・なくなっているもの。それを数えることはできないし、無いものは当然、数えられない。コヘレトは何を伝えたいのか。解釈は読み手に委ねられているが、 神の御業を見よ。神が曲げたものを、誰が直しえようか(7章13節)とある。次節の逆境と順境から、神が曲げたもの=逆境と読める。あるいは、人間そのものの事かも知れない。性格や人格のゆがみを直そうとしても、結局は直らないから。努力や修行によって、真っ直ぐにしようと頑張っても、ゆがみは直らない。人間の力だけでは出来ないのに、傲慢にもできると考えるから、結果は空しさに終わる、とコヘレトは述べている。歪みや曲がりは、障害者のことかも知れない。障害をあるがままに受け止め、そこから飛躍する生き方ができる。次の欠けとは人の欠点・短所でもある。私たちはそこを直そうするが、それは欠けて無いものだから数えられない。あるがままに受け入れるほかはない。それなのに、つい欠点にばかり目を留め、矯正しようとする。これは昔の話ではない。私たちもしていること。ここをリビングバイブル訳は、 間違ってしまったことは、もう正せない。あったかもしれないものを考えてみたところで、何の役に立とうか。
優秀な父母を持つ少女の話。学校のテストで98点を取る。それを父に見せると、及ばなかった2点を指摘されるのが常だった。あと2点あれば・・と。父は100点満点を取っていたのかも知れないが、その子は一生懸命頑張ったのに、と悲しい思いになる。そんな時、祖父の所に行く。同じ物を見せると、祖父はよく頑張ったね、と抱きしめた。孫をありのまま受け入れてくれた。これは前者が律法主義を示し、後者はイエス・キリストの在り方を示す。私たちはいつも不完全で、欠点だらけ。性格も歪んでいるし、曲がっている。それで良いとは決して思っていないが、齷齪(あくせく)してしまう。そこで、コヘレトは言う。
変えられないものは、あるがまま受け入れる平静さを
変えられるものは変えてゆく勇気を、
この2つの違いを 見分け、識別する知恵を、神に祈り求めよ、 と。