一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。(コヘレトの言葉1章4節)

日は昇り、日は沈む5節)。私たちの毎日は同じことの繰り返し。朝起きて夜眠る。太陽は東から昇り、西に沈む。決して西から昇りはしない。川は雨として降った水を海に流し入れる。海が水で溢れないのは、水分が蒸発して雲になるから。その雲が雨を降らす。だから、川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる(7節)と記す。自然は循環し、万物は流転する。自然だけでなく、人間の歴史も同じ繰り返し。冒頭の聖句は、繰り返し循環し流転する人の世に対して、変わらないのは大地だと述べている。大地は変わらないが、その上に人間が造り上げる都市や家屋は移り変わる。国破れて山河あり:国は滅んだが、故郷の美しい景色は変わらない、栄枯盛衰の人の世と悠久の大自然を対比した言葉。空しいと言うよりは哀しい。

かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しいと言ってみても それもまた
永遠の昔からあり この時代の前にもあった。
(コヘレト1章9~10節)

よく言われるのが、古典に帰れ。先人の知恵は決して古くはないから。新発見!と思っても、よく調べると、昔に同じことを発見した人がいたと分かる。昔、エジプトにある洞窟から、「今の若い者は・・」と落書きされていた。老人の嘆く声は、何も今に始まったことではない。大切なことは、そこをどのように乗り越えてきたか、にある。人は昔も今も同じだから。

知恵を得よ、悟りを得よ、とある。新しいものが良くて進んでいると、つい考えてしまい易いが、むしろ昔の古典に戻ってみる。長い年月を経ても評価の変わらないのが古典。だから古典を紐解いてみる。ただし古典はいつでも難解である場合が多い。しかし、そこに知恵が示されている。だから、そこに立ち帰る。 では、コヘレトは何に帰れと言っているのだろうか。太陽の下ではないもの、そこに帰れと言っている。日の下=この世、それを超える所に戻るよう勧められている。同じことの繰り返しと循環の中に、当たり前ではない新しさを見出せる、それが知恵ある生き方。