すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ人間のすべて。(コヘレト12章13節)

上記がコヘレトの結論。なんという空しさ(空の空)すべては空しい、と書き出されていた(1章2節)。最後の章にも、なんと空しいことか、すべては空しい、とある(9節)。太陽の下(地上)で行われていることは、コヘレトの目には空しい、と映った。しかしそれは、空しくないものを浮かび上がらせるための手法。神を畏れること、それが私たちのすべて。すべてとは本分ということ。人間としてなすべき本分(一番大切なこと)、それが神への畏敬=神を信じ敬うこと。

新共同訳以前の翻訳では、神を恐れる、となっていた。文語訳だけ「畏れ」となっている。畏敬には、恐れるの意味もある。しかし、神が怖いから恐れることを勧めているのではない。とはいえ、コヘレトは次の言葉を続けている。神は、善をも悪をも 一切の業を隠れたこともすべて 裁きの座に引き出されるであろう(12章14節)。最後の審判があることを告げている。でも本来の畏敬には、恐れ以上に親愛の情と慕う思いが込められている。汚れた人間の分を弁えながらも、無償の愛で限りなく愛してくださるお方への信仰と信頼が含まれている。その意味で、新共同訳の「神を畏れ」は高く評価されるべきと思う。

では、神を畏れるとは、どのような生き方なのか。神の戒めを守れ、とある。戒め=律法。聖書に書かれている通りに生きること。律法とはルール。人としての在るべき本分、それが神を畏れること。人間が支配している地上は、空の空だと見抜いたコヘレト。どんなに長生きしようと、どんなに富を蓄え、名声を得ようとも最後は死に至る。それが地上の営み。その限界に気づき、永遠の世界(天上界)に思いを定めること.

それが神を畏れる生き方。翻って、自分自身はどうなのか?と問いたい。神と人を全力で愛すること、それが律法の要約だが、行えていないのが現実。コヘレトはそんな無力な私たちに、イエス・キリストを指し示している。そこに、彼の知恵の源泉がある。

コロナ禍にエリート官僚の発案する政策が国民感情とズレているのは、神を畏敬する知恵が欠如しているから。知恵は謙遜さと相手を思いやる愛にこそある。