善人すぎるな、賢すぎるな。どうして滅びてよかろう。
悪事をすごすな、愚かすぎるな。
どうして時も来ないのに死んでよかろう。(コヘレト 7章16,17節)
何事でも、過ぎるのは良くないわけで、善に過ぎたり、賢すぎるのも良くないわけです。自分を滅ぼしかねないからです。中庸さを保つバランス感覚が大切です。真面目なのは良いのですが、過ぎてはいけない。真面目過ぎる人は完璧主義者で、人から頼まれると断れず全部自分で背負い込むから、ストレスも抱え込み健康を害し易くなります。そして、自滅や早死にしやすいのです。私の父は真面目過ぎる人で、仕事上の大変さを一人で抱え込み、絶えず胃の薬を飲んでいました。56歳で他界しました。しかも、癌で苦しみながらでした。思い返す度に、冒頭の聖句が思い浮かびます。コヘレトはこのような早死にを、「どうして時も来ないのに死んでよかろう」と嘆いたと読めます。
では、どうすれば良いのでしょう。一つのことを掴(つか)むのはよいが、ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば、どちらをも成し遂げることができる。(18節)と述べています。神を畏れ敬うこと=信仰が鍵です。それは、どちらをも成し遂げさせる信仰です。世の中は、信仰について「信じるのは良いが、凝り固まらないで、ほどほどにしなさい」と言います。コヘレトが言うのはそれとは違います。信仰の本質を掴んでどちらも肯定して生きることだからです。肩から力を抜いて、自力で頑張るのを止め、上からの力と導きに任せて従い全力で生きることです。人は皆罪人で、どんなに努力しても不完全と知れば、そう出来ます。善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない。(20節)とコヘレトは述べ、続けて、 人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕(しもべ)があなたを呪っても聞き流していられる。あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、あなたの心はよく知っているはずだ。 (21、22節)、と言っています。しかし、人の言葉が気になるものです。そして悩みます。そんな私たちにコヘレトは語りかけています。大切なことは何か。それは神を畏れ敬うこと、言い換えると、神を生活の第一にし、イエスキリストに聴き従うことです。コヘレトの説く中庸とは、一方だけに偏り過ぎないバランス感覚のことです。そこに、信仰の健全さがあります。