こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
(ヘブライ12章1~2節)
多くの証人が「雲のように」私たちを囲んでいるのです。雲は小さな水滴の集合体で、水滴はひとり一人の信仰者。証人=殉教の意味もありますから、アベルに始まる殉教者もそこにいます。今、わが国ではオリンピックが開催されています。本来なら会場一杯の観客の声援を受けて競技が行われます。ヘブライ書は、信仰の生涯を陸上競技に擬(なぞら)えます。そして、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて(単に捨てると言うより、なりふり構わず捨て)、忍耐強く走り抜こうではありませんか、と勧めます。走る時は、出来るだけ軽装になります。罪は、私たちの中に潜む欲と相まって、絡みついてきます。それに阻まれると競争に支障が出ることを、よく知っているのです。同じことが私たちの信仰生活にも当てはまります。
聖書に挙げられた信仰の先達たちだけでなく、同じ集会の先輩兄姉らも雲のような証人です。目には見えないのでそうした人たちに囲まれていることに気付かないかも知れません。遠い過去の聖徒たちよりも、父や母と言った身近な信仰者たちを思い浮べます。そうした人々が天から見詰めていて、私たちが信仰の走路を最後まで走り抜くよう励ましているのです。「わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです」(Ⅰコリント4章9節)。選手は見られているものです。そして声援を原動力にして、自分に定められている競争を走り抜くのです。
信仰生活には目標とゴールがあります。それは信仰の創始者であり完成者である、主イエスです。約束の地を目指して荒野を進んだイスラエルのように、私たちは乳と蜜の流れる地であるイエス御自身がゴールです。その途上で意気阻喪しないようにと、雲のような証人からの励ましがあります。決して一人ではありません。私たちが共に集まる意味が、そこにあります。私たちの信仰はイエスによって始められ、その完成も主イエスです。だから、主イエスを見つめるのです。