ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認 められながらも、約束されたものを手に入れませんでし た。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画 してくださったので、私たちを除いては、彼らは完全な状 態に達しなかったのです。 (ヘブライ11章39~40節)
信仰によって生きたアベルから書き始め、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、預言者たち、他の大勢の人々について記し、「この人たちは信仰を抱いて死にましたが、約束されたものを手にしませんでした」と締め括ります。それは旧約の救いには限界があることを示しています。そこで神は、更にまさったイエス・キリストによる福音を計画されたのです。ヘブライ書は、天使よりまさったキリスト、動物の犠牲にまさるキリストの犠牲(完全な犠牲)によって永遠の贖いが成し遂げられたこと、そして、神と人との間を執り成す完全な大祭司であるキリストが天の聖所に着座されたこと、その故に、私たちは罪あるまま神の御前に近づけると記しています。旧い契約ではなく新しい契約が、キリストの死によって神と結ばれたからです。
私たちは旧約聖書と言いますが、同じアブラハムを先祖に持つユダヤ教徒はそのようには決して言わず、ヘブライ語聖書と呼びます。新約聖書をギリシャ語聖書と呼びますが、新約聖書を正典として認めてはいません。こうした宗教対立を解消する鍵が上記の聖句にあります。アブラハムやモーセに代表される旧約の聖徒たちは、イエス・キリストによってのみ完全な状態の救いに達することができるからです。しかし、十字架のイエスが救い主キリストであることを、ユダヤ教は受け入れていません。そのことを予知したヘブライ書は、11章の信仰者列伝を通して旧約の聖徒と新約のキリスト者が一つに繋がっていること、それゆえ共に信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストを仰ぎ、見つめようと勧めているのです。キリスト者を敵視し、排除してはアブラハムもモーセも完全な救いには達し得ないからです。私たちの救いも完全な意味では「まだ」です。「既に得ている」救いと、まだ完全な状態には達していない現実との中間に置かれています。だから、誘惑や試練があり負けたりもします。しかし主イエスによって勝利は既に勝ち得ています。