また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺されのこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。 (ヘブライ11章36~38節)

これが信仰者列伝の最後です。具体的な名前は省かれていますが、預言者エレミヤやイザヤが念頭に置かれています。神の言葉を語ったため投獄されたエレミヤ、のこぎりで引かれて殺された預言者イザヤ。そして、前回のマカベア書に記された信仰者たちは、「剣で切り殺され、羊や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられました。時の為政者から、異教の神々への礼拝や律法に反することを命じられても従わなかったからです。わが身を守るため信仰を曲げ、世に迎合することを潔しとしなかった者は過酷な苦しみに遭いました。しかし、そうしたことはダニエル11章31~39節に預言されていたことの成就であったのです。つまり、神は事前に信仰者たちが受ける苦しみを熟知しておられたのです。守護の御手を差し伸べなかったのでは決してありません。たとえそのように見えたとしても。それはそのまま、わが国のキリシタン迫害につながります。信仰によって永遠の命を受け、天国に移される希望を抱いて耐え忍びました。『沈黙』と題される小説と映画は、苦しむキリシタンたちに何も答えない神の沈黙を描いたものですが、そこに神の秘儀があります。

使徒12章に、ヤコブがヘロデ王によって殺害されたこと、一方ペトロは奇跡的に助けられたことが記されています。これは運が良い悪いの違いではありません。ペトロには神の力と守りが示されたのに、ヤコブにはそれが無かったかに見えます。しかし、主のために死ぬ殉教は恵みであり、また生存して主の御用が出来るのも恵みです。剣の刃から逃れる者もあり、反対に、剣で切り殺される者もあります。すべて現実に起きた出来事ですが、本当の意味は私たちには隠されています。でも、神のなさることは最後には、すべて善と救いに変わります(ローマ8章28節)。そうでなければ、私たちには希望を見い出すことは出来ません。

コロナ禍で、思うように集えない昨今、出来事の背後にはどのような働きがあるのでしょうか。背後とは霊的な世界のことで、悪魔と神、サタンとイエスの働きがあります。今は悪魔が放置されているようでも、最後には滅ぼしてしまわれます。それが主の再臨の時、世の終わりの時です。