信仰によって、 人々はまるで陸地を通るように紅海を 渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。 (ヘブライ11章29節)

解放されたイスラエルの人々は、意気揚々とエジプトを旅立ちました。しかし数日して、エジプト軍が背後に迫っている事を知り、パニック状態になります。大声でモーセに、「我々を連れ出したのは、荒れ野で死なせるためか」と叫びます。目の前には紅海、後ろにはエジプト軍で逃げ場がないのですから、無理もありません。その時モーセは*「恐れるな!落ち着いて今日、あなたたちのために行われる主の救いを見よ。主があなたたちのために戦われる。静かにしていなさい」(出エジプト14章13節)と、語りかけます。そして杖を高く上げ、手を紅海に差し伸べて一晩中祈り続けました。すると驚くべき光景が展開して行きます。目の前の海が2つに裂けて海底が現れ、道が対岸まで続いています。さあ、どうする?進んで行くのに決まっている、と思っていました。物語として、その先を既に知っているからです。しかし、そうした第三者的な視点ではなく、イスラエル人の身になればどうか。冒頭の聖句から、新しい視点を得ました。海の底の乾いた道を進むのは信仰に依る以外にない、ということを。このことをパウロは、洗礼を受けたと表現しているからです (Ⅰコリント10章2節)。左右にそそり立つ海水が、いつ自分たちの上に崩れかかるか分からない状況でした。しかし、イスラエルの民は冒頭の聖句のように、まるで陸地を通るように紅海を渡りました。どんな気持ちだったかは何も書かれていませんが、絶望の叫びを上げた人々は「まさか」海が裂けるとは思いもしなかったでしょう。何と信仰の薄いことでしょう。しかし、それは私たちも同じです。

信仰に依らずに襲いかかろうとしたファラオの全軍は、自分たちの上に覆いかぶさってくる海水から逃げることができません。1人残らず、海の藻屑となったのです。そうされたのは主なる神だったからです。王ファラオとエジプト軍は、悪魔と罪を象徴するものとして描かれています。神の民を支配下に置き、罪の奴隷とするため、どこまでも追跡して来るからです。それは遠い昔の話ではありません。今も私たちは様々な困難や問題に支配され、絶望しがちです。そんな時上記*モーセの言葉を自分への言葉として読みたい。