信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越しの食事をし、小羊の血を振りかけました。 (ヘブライ11章28節)

モーセはミディアンの地で40年間過ごし、80歳のとき、神に召されます。モーセが見た不思議な光景~柴の木が火で燃えているのに、焼け尽きない~は、神御自身の臨在を表します。神は火の中から語ります「わたしの民をエジプトの圧制から救い出せ」と。そこでモーセはエジプトに行き、王ファラオに、「奴隷として苦役に喘ぐイスラエルの民を解放しない限り、災は止まない」と告げます。ナイル川が赤く血に変わり、蛙が無数に増殖し家々に入り込み、ぶよやあぶが異常に増え、疫病が発生し、イナゴが来襲します。更に、エジプトの地は漆黒の闇に覆われます。そして、十番目の災いである長子の死が襲いかかります。目に見えない剣で死をもたらす「滅ぼす者」とは御使い。御使い=天使は善き事を運んでくる使いと思っていますから、驚かされます。天使は私たちを助けるだけでなく、神の裁きである災いをも行ないます。

出エジプト12章にその時の様子が記されています。玄関の鴨居(横木)と2本の柱に、小羊の血を振りかけ塗るのです。その血を見た滅ぼす者は、家の中に入って初子である長子を殺さないで、過越して行きます。ところが、エジプト人の家にはそれがないので、すべての初子が死にました。これが決定打となって、ファラオはイスラエル人を奴隷から解放します。これ以後小羊の血、即ち、主イエスの十字架の血による救いを意味しました。キリストが、私たちの過越しの小羊として屠られたからです(Ⅰコリント5章7節)。エジプトでの奴隷状態は罪の奴隷を示し、そこからの解放の原型を冒頭の聖句は示しています。イエス・キリストのことを洗礼者ヨハネは「神の小羊」と呼びました。罪を取り除く神の小羊だ、と(ヨハネ1章29,36節)。私たちは主日毎に、主の過越しであるパン裂きを中心に置いて礼拝します。そこで、罪のないキリストが私たちの罪を身代わり、血を流して死なれたばかりか、三日目に復活されたことを記念します。滅ぼす者である神の使いは過越し、代わりに救う者であるキリストが共に居てくださいます。パンはキリストの体、杯は罪を赦す血です。それを信仰によって受け取り、赦しの恵み、命の糧とされるのは何という恵みでしょう。