信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。(ヘブライ11章24~26節)

モーセはエジプト王女の子として育ちました。しかし、少年・青年時代のことは出エジプト記には見出せません。ただ、冒頭の聖句によって、若き日のモーセが、自らの出自について悩んだことが推測できます。しかし、どうやって彼は自分がヘブライ人であることを知ったのでしょうか。母である王女は実の母ではありませんが、モーセは王宮で王子として育ちました。「モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け…ました」(使徒7章22節)。彼は、王宮の外で虐げられているヘブライ人の奴隷たちを見たことでしょう。そして、それが自分の同胞であることを知ったのです。どのようにしてか。恐らく、姉のミリアムが関係していたでしょう。ミリアムは、弟を入れた籠が王女に取り上げられるのを見、王女のもとに駆け寄り「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」と申し出ます。姉は6歳位でしたが、勇敢にも王女に語りかけます。この時だけでなく、その後もモーセを乳母である実の母と会わせたに違いありません。そこで彼は、自らがヘブライ人であることを知るのです。王妃はそうしたことも、すべて知っていたようです。モーセの信仰は、母や父から伝えられました。宮廷で王子という恵まれた環境にいるけれども、それに甘んじることは出来なかったのです。若いモーセは悩みました。そして、信仰による生き方を選びます。

冒頭の聖句をご覧ください。王子としての恵まれた生活を拒み、虐待されている同胞の立場に身を置いたのです。ヘブライ書は、「キリストのゆえに受けるあざけり」と記しています。キリストを見ていたというのです。王子としての立場を捨てて、奴隷の立場に身を置いた=神の子の立場を捨てて、卑しい人間の姿となられ嘲られたキリスト。すごい理解です。ここに、モーセの信仰があります。彼は地上の富ではなく、神から与えられる永遠の富と報いに、目を向けていました。こうした視点で、若き日のモーセを示し、更に、救い主であるキリストに目を向けさせる著者に感謝。