信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの 一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって 神を礼拝しました。 (ヘブライ11章21節)
ヤコブの一生は波乱万丈でした。父と兄を欺き、怒った兄エサウから身を守るため夜逃げしたヤコブ。母の兄(叔父)ラバンの所に身を寄せます。そこで、貪欲な叔父に欺かれます。また、子どもたちからも欺かれ(人を欺けば、自分も欺かれる例)、ヨセフは死んだと思い込みます。ところが実際はそうではなく、エジプトの地で生きていたばかりか、国のトップの地位に就いていたのです。20年振りで息子ヨセフと再会した時のことが創世記46章28~30節にヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた、と記されています。
17歳で生き別れになった息子の立派な姿を見、その2人の息子を前にしたヤコブは147歳になろとしていました。ヨセフとの再会から17年経っています。老衰のため殆ど床に就いたままでしたが、2人の孫を祝福するため渾身の力を振るい起します。そして、孫であるマナセとエフライムの頭の上に手を置いて、祝福を祈ります。それが冒頭の聖句。ヘブライ書の著者は、信仰に生きる姿として、ヤコブのこの場面を取り上げています。信仰の継承が示されています。
使徒パウロは同労者テモテの信仰について、その信仰はまずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています、と述べています。信仰は親から子へ、子から孫へと宿るものです。創世記の族長たちの信仰も、そのようにして継承されました。お金や物などを遺産に遺すこと以上に、信仰という遺産を次の世代に遺すことに心を配りたいものです。ヤコブの遺言は、異国のエジプトには葬らないで、先祖アブラハム、イサクの葬られた墓に葬ることでした。神の約束されたカナンの地こそが、帰るべき故郷だったからです。それは私たちに於いても同じです。私たちの国籍は天にあるからです。族長のヤコブらが求めたのは、更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は彼らのために都を準備されていたからです、とヘブライ書は記しています(11章14,15節)。
信仰によって生きた人々の姿を、信仰列伝のように記したのがヘブライ11章です。彼の視点に立って旧約聖書の人物を読み直してみると、新しい気づきが与えられます。