信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。(ヘブライ11章20節)

もし私がイサクの信仰について書くとしたら、リベカとの間に子どもが与えられないために20年間も祈り続けたこと(創世記25章19~26節)、折角掘った井戸が敵に塞がれてしまっても、その度、新しい井戸を掘り続けたこと(26章15~25節)を取り上げるでしょう。誰にでもできることではないからです。2代目の信仰者の典型がイサクです。偉大な父アブラハムと、強烈な個性の持ち主の息子ヤコブとの間にあって、イサクは温和で目立たない存在に思えます。上記の2つの出来事に於いても淡々とこなし,そのことを誇らしげに語らない。それがイサクでした。ところが、ヘブライ書の著者はそうした事を取り上げていません。2人の子エサウとヤコブへの祝福が取り上げられているのです。創世記27章にはドロドロとした策略劇が記されています。そのどこに信仰が働いているのでしょうか。それを探ってみたいと思います。

創世記には、「イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた」(27章1節)とあります。イサクは、「こんなに年をとったので、わたしはいつ死ぬか分からない」と死後に備えようとしています。生きている間に、長男エサウに神の祝福を祈りたいと考えます。次男ヤコブへの祝福も祈るつもりだったのですが、結果的には兄と弟との祝福が逆転します。神が介入されたからです。人間が策略を用いなくても、神の計画は実現します。しかし、信じられなかったのがリベカでした。だから、人間的な方法で神の祝福を取ろうとしたのです。その結果、兄エサウは騙されたと激怒し、殺意さえ口にします。事の次第を知った「イサクは激しく体を震わせます」。神の介入を体で実感したからです。神が兄と弟を逆転させていたのに、自分はそれに反した祝福をしようとしていた、と気付いたのです。だから、策略を用いて自分を騙した、妻と息子ヤコブを一切責めませんでした。

信仰とは未知の将来(まだ見えない事実)を確認し(ヘブライ11章1節)、祝福します。父アブラハムに与えられた祝福が自分を通して子らへと受け継がれることをイサクは確信しました。たとえ人間同士の間に争いや確執があったとしても、神の祝福は変わらないからです。私も死を前にするとき、子らに神の祝福を祈る者でありたいです。次の21節は、信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たち一人一人のために祝福を祈り…と続けられています。