信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。 (ヘブライ 11章17節)

神から、「あなたの子孫は空の星のように多くなり、数えきれなくなる」と約束された時、アブラハムはそれを信じました。しかしその時、彼には子どもがいませんでした。なのに彼は、「神が言われたことは必ずその通りになる」と信じました。そして、百歳の彼に息子イサクが、90歳の妻サラから産まれたのです。奇跡的な誕生でした。そこに、彼の信仰を見ることができます。

それから十何年が過ぎました。ある夜、神は、「あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としなさい」と命じます。何と酷い、そして矛盾した語りかけでしょうか。イサク以外に子どもは1人もいないことを、神はご存知のはず。しかも、イサクから子孫が出ると約束したのは、同じ神です。イサクはアブラハムにとって、愛する独り子です。かけがえのない子です。約束の子です。その夜、アブラハムは眠れないまま朝を迎えたことでしょう。そして翌朝、彼は神の言葉を妻にも話さず、一人黙したまま行動し、神が指定したモリヤの地まで、息子イサクと一緒に出かけます。冒頭の聖句は、その時のことです。なぜ神は、理不尽な命令を下されたのか、理解すらできない。その時、神との間でどんな対話がなされたのか、聖書は一切記していない。しかし、ヘブライ書は、次のような驚くべきことを記しています。

この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。 (ヘブライ 11章18,19節)

創世記のどこにも書かれていない「死からの復活」信仰が示されています。最も大切なものを本気で献げようとした瞬間、神が介入されます。そして、失ったと思ったわが子イサクを返してもらったのです。どんな気持ちだったでしょうか。その時には分からなかった神のご配慮に、アブラハムは後で気付きます。私なら独り子を犠牲にせよ、と言われた段階で従えなかったでしょう。最も大切なものも神のためなら手放せる(献げられる)かどうか、そこで信仰が問われます。神は私たちすべてのために、その独り子をさえ惜しまず死に渡されたのですから(ローマ8章32節)。