信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎて いたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は 真実な方であると、信じていたからです。(ヘブライ 11章11節)

アブラハムの妻サラは不妊症でした。子が無いまま90歳になっています。年齢が盛りを過ぎていたとありますが、90歳(夫は100歳)の女性が子どもを出産するのは無理というものです。不可能と言っても言い過ぎではありません。ところが、子をもうける力が与えられたのです。不妊治療の結果ではありません。神への信仰によって、子を産む力が与えられたのです。とはいえ、サラ自身も最初はそんなこと有り得ないと笑いました。その様子は創世記18章に記されています。生理的には、起こり得ない奇跡ですが、それが起きたのです。それは信仰によってですが、神の約束が示されていたのです。それで「約束をなさった方は真実であると、信じていたからです」と冒頭の聖句にあります。約束の内容は信じ難いことでしたが、神が約束されたことは必ず、神が働きかけて実現させてくださいます。神に不可能はないからです。しかし私たちが信じなければ奇跡は起きません。不信仰が神の働きを抑えつけるからです。(マルコ6章5節参照)

それで、死んだも同然の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれ たのです。 (ヘブライ11章12節)

百歳のアブラハムは、生殖に於いては死んだも同然でした。そんなアブラハムであっても、神にとっては何ら問題ではありませんでした。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、…希望するすべもなかったときに、なをも望みを抱いて信じ『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。…神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです」(ローマ4章17~21節)。
アブラハムの物語は、後々まで「信仰の父」として語り伝えられました。それを私たちも読み、味わえるのは何と幸いなことでしょうか。アブラハムの神は不可能を可能に変え、絶望を希望に変えた神で、私たちの信ずる御方です。