モーセは主が命じられたとおりにすべてを行なった。(出エジプト記40章16節)
ノアの信仰を、この欄に記しながら示されたのは、主の言われる通りに従っている点です。自分の判断を一切加えていません。ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした(創世記6章22節)、とあります。これは簡単なようでいて、大変難しいものです。自我が働くからです。聖書にはそうあるけど…、現実はそう簡単ではない、と自分勝手に受け止めるのが私たちではないでしょうか。神はそうした傾向をご存知です。だから律法には、「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の言葉を守りなさい」と、あるのです(申命記4章2節)。
出エジプト25~31章には幕屋建設の仕様書が記されています。そして、35~40章には同じ内容が繰り返して記され、最後に冒頭の聖句のように、モーセは主が命じられたとおりにすべてを行なった、と報告されています。信仰とは、神が命じられたとおりにすべてを行なうことだからです。25~31章に幕屋の寸法、そこに用いる材料、そして作り方に至るまで事細かに指示され、このように造りなさい、と命じられています。35~40章では、そのとおりにしました、とあります。煩雑な繰り返しに思えた幕屋建設の箇所が、新しい視点で読め、「なるほど」と納得しました。
箴言3章5,6節に「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け」と勧められています。自分の分別を加え、自分勝手に解釈しがちだからです。信仰によって生きる知恵ある生き方とは、自分の判断や分別には頼らず自分を無にして、常に主を覚えて聴き従うことです。それが一番間違いのない歩み方です。なのに何と自分で判断し、聖書の言葉に水増ししたり、割り引いたりして来たことでしょう。聖書の最後に、預言の言葉に何かを付け加えたり、何かを取り去る者があれば、災いをその者に加える、との警告が記されています。それは黙示録の言葉だけでなく、聖書全体のことです。神からの啓示は聖書全巻に収められ、完結しているからです。今神は、御自身の言葉である聖書を通して語りかけておられます。それに聞き従う信仰が求められています。