信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。 (ヘブライ11章8節)

信仰によって、アブラハムは行く先も知らずに出発した、とあります。しかし、どこに行けば良いのかも知らないで、出かけることが出来るでしょうか。 それは無謀というものです。 それが信仰でしょうか。アブラハムの事が記されている創世記には、神はアブラハムに「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」(12章1節)と 、あります。推測ですが、カナンの地を目ざして行きなさいと告げられていたはずです。そこは、行ったこともない土地です。大まかな方向だけが告げられていたわけで、それは神も示していたと考えられます。ちょっとした旅に出るのにも、私たちは行き先の住所などの情報を調べます。行き当たりばったりの行動は多分しないでしょう。アブラハムの旅は故郷を離れ、何も知らない未知の地への冒険に似ています。頼れるのは神の導きだけです。

信仰には従順を学ぶ意味があります。従順は服従と言い換えられ、パウロはローマ書で2度、信仰による従順に導くと記しています(1章5節,16章26節)。何とイエス様も従順を学ばれました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました(ヘブライ5章8節)。それは、神の言葉に対する従順さです。アブラハムに於いては、それが「行き先も知らずに出発した」、即ち一歩一歩神に聴きながら歩いたのです。地図も案内人もないまま、危険も顧みず旅立ったアブラハム。75歳は後期高齢者ですが、彼は神だけを頼りに旅立ったのです。

どこに向かったのか、カナン地方です。そこが聖書の舞台となります。主イエスもそこで生活し、活動されました。ある時、どうして神はパレスチナとも呼ばれるカナン地方を選ばれたのか、との疑問を抱きました。イスラエル旅行のガイドに尋ねました。すると、古代の地図が関係していると言われました。古代も古代、イスラエルのカナンが世界の中心であったのです。そんな地図があります。あの狭い土地が、アフリカ・アジア・ヨーロッパを結びつける中心地点だったのです。神は世界の中心に向かって行くようにとアブラハムを召し出したのです。彼は「はい」と答えて、神の言葉に従いました。それを「信仰によって」と記したのです。自分の思いや意志ではなく、神の導きに従いました。