信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。(ヘブライ11章3節)
今年も終わりに近づきました。1年前の12月には想像すらできなかった新型コロナ禍、いつ終わるのかも見えない状況です。そんな年末年始に、信仰によって生きる道をヘブライ11章から聴きたいと祈ります。
冒頭の聖句をご覧下さい。創世記1章が著者の念頭にあります。天地創造の時、まだ人は生まれていません。神だけが在し、言葉によって「~あれ」と命じられます。すると、混沌とした世界に光が生まれ、様々なものが秩序正しく生み出されて行きます。神は目に見えません。その御口から出される言葉も、目に見えません。しかし、確かに存在されます。目に見えるもの(物質など)は、目に見えない神から生み出され、造られたものです。それを信じるのが信仰です。ここで言われる信仰は、4節以後に名前が挙げられる聖書の人物の信仰とは違い、これ(聖書)を読んでいる私たちの信仰を指しています。
私たち人間にとって大切なものは、目に見えないのです。心や愛、いのちは見えません。神もそうです。見えなくても確かに存在します。そして、目に見え、お金に換算できるものよりも大切なのです。目に見える物は、目に見えないものから生み出されたものだからです。それが神であり、その御口から出る言葉ですそれを書き記したのが聖書です。聖書は神の言葉で、言であるイエス・キリストが、そこに内在されています。私たちはそのことを信じる者です。「本質的なことは目には見えない」と言われます。目に見えないものこそ大切なのです。信仰も目には見えません。物質は移り変わります。信仰よりも、目に見える物質が上位に置かれている今の時代だからこそ、本質を見失わないようにしたいものです。
それゆえ信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(Ⅰコリント13章13節)。目に見えない信仰・希望・愛の根源におられるのが神です。信仰から生まれる希望は決して絶望に陥らない、信仰から生まれる愛は変わる事がない、その源に神の愛があるからです。