信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ11章1節)

ヘブライ書は手紙とされていますが、差出人の名前も宛先の名前も書かれていません。そして、この書の執筆者も不詳です。少なくともパウロが書いた手紙ではないようです。旧約のモーセ律法に精通した人として、多くの聖句が引用されています。そして、イエスこそ真の大祭司であることが記されています。そうした著者が信仰について述べるのに、まず信仰とは何かが言い表されています。それが冒頭の聖句です。

正直なところ、何回読んでも漠然とした印象が残ってしまいます。そして、こうなったら良いなと望んでいる事柄を必ずそうなると確信することだ、と理解しがちです。それを示すリビングバイブルは、「信仰とはいったい何でしょう。それは、望んでいることが必ずかなえられるという確信です。また、何が起こるかわからない先にも、その望んでいることが必ず待っていると信じて疑わないことです」と訳しています。信仰とは強い信念だと受け取れますが、殆どの解説書がそうした主観的な理解に疑問を呈しています。では、信仰とはどういうものでしょうか。

信仰とは、望まれていることの保証であり、実際には見えない事実を確認することである、とも訳されています。自分が望むことではなく、望まれていることの保証(本質)が見えていないとしても、必ずそうなると信じること、それが信仰だというのです。神がこうあって欲しいと望まれること=神の約束、まだ実現していないとしても、神が約束されたことは必ず実現するとの確信、それが信仰です。私たちはこうあって欲しいと望んも、理性的に考え無理かなと思ってしまうものですが、それは信仰ではないと述べています。何だか小難しく、入り組んだ書き方をしましたが、 ヘブライ書はこう記してから、昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました(2節)、と続けています。そして、アベルから始まる聖書に登場する人々の信仰の実例を記して行きます。

人から「あなたの信仰って、どんなものですか?」と尋ねられたら、どのように返答されますか。たとえ信仰の定義をヘブライ書のようにできなくても、相手が成程と思える表現を身に着けておきたいものです。