マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。 (マタイ121節)

 罪の問題を、太陽の恵みを遮る黒雲に例えました。その罪の結果は死で、その具体的な表れが戦争です。罪は地球環境を汚染し、破壊しました。悲惨な現実の中心にあるのが、自分さえ良かったらよいとする自己中心の罪です。出来事が政治や経済や教育の問題のように見えるかも知れませんが、本当の問題は人間の罪にあるのです。そうした罪からの救いは、どこにあるのでしょうか。イエス・キリストにあります。上記の聖句が、それを示しています。母マリアから生まれたイエスは、罪からの救い主です。政治的な救い主ではありません。そのイエス・キリストがどのようにして罪を解決されたか、それを記しているのが聖書です。しかし、いきなりキリストが救いの御業を成し遂げられたのではありません。父なる神と子なるキリストと聖霊なる神、即ち、三位一体の神が、私たち人間を救うために、秩序立って御業を成し遂げられたのです。それを端的に示しているのが信仰告白である使徒信条です。この信条は古くから、普遍的に、世界中で用いられました。多くの教派に分かれているプロテスタント諸教派に於いても、カトリックや聖公会に於いても一致できます。私たちキリスト同信会も、この信仰告白の上に立っています。この信条にはキリスト信仰が要約されています。だから、イエス・キリストのことを伝えるために、使徒信条を紹介します。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。
  主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、
  ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に
つけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に
死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父な
る神の右に座したまえり、かしこより来たりて生け
るものと死ねるものとを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
 聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体
のよみがえり、永遠の生命を信ず、アーメン。
 

この信条の中心は、イエス・キリストに関するものです。それが、多くの言葉で言い表されています。