平和を実現する人々は、幸いである。
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5章9節)

 誰もが平和を願うのに、いつの時代にも互いに殺し合う戦争が絶えません。命は地球よりも重い、と言いながら、戦争を繰り返しているのです。この愚かさの原因は、人の罪にあります。罪の結果は死ですから。
そんな現実の中で、主イエスが語られた上記の聖句を考えます。戦争のない平和な世界は、メシアである救い主の再臨によって、そのまま自動的に実現すると信じ、人々は待望していました。では、私たちは何もしないで良いのでしょうか。主は「平和を愛する人は幸い」とは言われず、「平和を作り、実現する人は幸い」と言われています。でも、何ができるでしょうか。

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し…こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架によって敵意を滅ぼされました。       (エフェソ2章14~16節) 

戦争や争いは、憎しみという敵意から生まれます。理由が何であれ、武力で攻撃されたら、死傷者が出ます。そこに敵意が生まれます。やられたらやり返し、戦争に発展します。そうなったら、一庶民に何ができるでしょうか。そんな私たちに代わり、キリストが命を懸けて十字架で、和解と平和を実現されたのです。そこに立ち帰らない限り本当の平和は実現しません。その上で、まず自分が平和を生きることです。他の人との関係の中で、調和(平和)を生み出すよう実際的に努めることです。その障害は自分自身の中にあります。自分の内に善と悪があり、互いに戦い・葛藤します。それが拡大したのが、戦争です。原因は罪です。底意も知られぬ人の罪にあります。そのような現実の中で、「平和の祈り」を生きられるよう祈ります。

主よ、私をあなたの平和の道具として用いてください。
憎しみのあるところに愛を、
争いのあるところに許しを、
分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を(中略)
主よ、慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを求めますように。
与えることによって受け、
許すことで許され、
自分を献げて自我に死ぬことによって、
永遠の命を与えられるからです。(聖フランシスコ)