地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(創世記1章2節)

 光のない闇が既に存在していました。すべては混沌とした状態でした。これからどうなってゆくのか先が何も見えません。しかし、神の霊がその上で、羽根を広げる親鳥のように舞っていました。このことが伝えているのは、神の配慮と愛です。たとえ、暗闇が覆っていたとしても、「光あれ」と命じられる神に目を向けるべきです。地上の状態や状況がどんなに混沌としていようとも、その上におられる神に目を向けるべきなのです。黒雲に覆われていたとしても、その上にはいつも太陽が輝いているからです。

2024年が始まりました。元日から能登半島での地震や、羽田空港での旅客機衝突事故が起きました。地上では晴れの日ばかりではなく、雨の日や嵐の日もあります。気持ちの良い日ばかりでなく、混沌とした暗い日もあります。そんな時でも、雲の上は常に太陽が輝いていること気づきたいものです。そのことを実感したのは、雨の日に飛行機に乗った時でした。空港の空は黒雲で覆われていました。ところが、飛行機が雲の上に出た瞬間、燦燦とした太陽の光が目に飛び込んできました。その時の感動は今も忘れられません。

 主の手が短くて救えないのではない。
 主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
 むしろお前たちの悪が 神とお前たちとの間を隔て
 お前たちの罪が神の御顔を隠させ
お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
(イザヤ59章1,2節)

神の愛は雲の上の太陽のように、常に変わることがありません。たとえ、雨や嵐をもたらす黒雲に覆われたとしても、です。主イエスはいつもあなたを愛しておられます。でも、私たちには罪があって、黒雲が太陽をさえぎるように、その愛が届くのを妨げているのです。その罪を滅ぼすために、主は私たちの身代わりとなって十字架で死なれました。その故に、主イエスを信じる者は太陽の恵みと愛を受け、祝福されているのです。私が良い事をしたからではありません。すべてキリスト故です。主の十字架の贖いの故なのです。
今年、何が起きようと落胆したり絶望せず、雲の上の太陽を思いたい。神の愛は変わらないからです。一番の問題は自分の罪にある、と気づきたいものです。