こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。   (ヘブライ9章22節)

 今日は一年最後の大晦日(おおみそか)です。特別な意味を覚えます。新しい年を迎えるために、今日受けるべきことがあります。罪の赦しです。誰もが年末には大掃除をします。汚れを清めて、新年を迎えるためです。それが罪の赦しです。神は一年毎に、新しくやり直す機会を与えてくださっているのです。それでは、罪が赦されるとは、どういうことでしょうか。

わが国では大晦日に、煩悩の数だけ除夜の鐘をつく習慣があります。煩悩とは貪欲・怒り・嫉妬などを指し、108もあると言われます。それは聖書でいう罪と同じです。大晦日に鐘をついたら、煩悩は消え去るのでしょうか。そんなに簡単に消えものではありません。神道では、罪の汚れはお祓いによって清められて無くなると言います。では聖書は何と教えているのでしょうか。冒頭の聖句を見てください。聖書は罪をもっと深刻に受け止めています。エレミヤは、罪は鉄のペンで書きつけられ、ダイヤモンドのたがねで刻み込まれている(エレミヤ17章1節)と言いました。簡単には消えない、それが罪です。だから罪が赦されるには自分以外の誰かが血を流す(身代わりに死ぬ)必要があります。動物のいけにえが、それです。血なまぐさいと思いがちですが、血について記されたレビ記の言葉を引用します。「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」(1711節)

主イエスは最後の晩餐に於いて、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました(マタイ26章27,28節)。大晦日には礼拝によって、十字架の死による罪の贖い=罪の完全な赦しを受けることが、最も重要で必要なことなのです。この一年、多くの罪を犯しました。その中で一番、問題にすべきなのが、「知らずに犯した過ち、隠れた罪」(詩編19編13節)かも知れません。そうした気づかない過ちと罪の赦しを主は十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、祈って下さるのです(ルカ23:34)。何という祈りでしょうか。