21、からだのよみがえりを信じます。(使徒信条)
主イエスが十字架上で死なれた時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。(マタイ27章51、52節)
五十嵐健治兄の墓碑銘は「主 来り給うまでは 」です。そのご子息有爾兄の納骨の時、茅ケ崎霊園の墓碑銘も同じでした。主が再び来たり給うまでは、この墓に眠っている。私は、その墓碑銘を目にした時、深い感銘を受けました。たとえ焼かれて骨になろうとも、主が再臨されたら、復活の体をいただいて生き返る、との信仰に触れたからです。死を、永眠ではなく就眠と書くのは、肉体の死が一時的な眠りだからです。 死は終わりではない。文章の終止符ではなく句読点です。冒頭の聖句を読むと、仰天させられます。
主イエスの死は、周囲に驚くばかりの変動を呼び起こしました。その一つが、からだのよみがえりです。礼拝讃美歌209番♪いつかは知らねど主イエスの再び この世に来給う日ぞ待たるる その時 聖徒は死よりよみがえり 我らも栄えの姿とならん♫
復活の主と同じ栄光のからだに変えられ、私たちも墓からよみがえります。そのことを、自分のこととして信じられるでしょうか?
かつて交わりを持たせていただいたハンセン氏病の聖徒たちは、次第に朽ち腐って行く自分の肉体の現実を見ながら、復活の希望に生きていました。主が再臨される日、自分の体は栄光の体に変えられると信じて、希望を持っておられました。普通の体の私にも、その切実さが伝わってきました。キリストに在る者の幸いを肌で感じたものです。
以前、観た映画『パッション』は、激しく鞭打たれて痛々しい傷跡の主イエスが映し出されました。そして、十字架上で死なれたのです。目を覆いたくなりました。ところが、最後に映し出されたのは復活されたキリストのお姿でした。肉体そのものが栄光の体に変えられ、手と足と脇腹以外、傷跡も消え去っていました。血まみれの十字架とまるで対照的な復活の主が、見事に映像で示されて、映画は終わりました。その余りの違いに、復活の力を知らされました。からだのよみがえりを信じます、と告白できるのは感謝です。