20、罪のゆるしを信じます。 (使徒信条)
使徒信条は、主の12弟子である使徒たちが書いたものではありませんが、主から受けた信仰が簡潔に言い表わされています。今回は、罪のゆるしです。
聖霊を信ずの後、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠の命を信ず、アーメンと続きます。私たちは毎日、いろいろな罪を犯します。そうした罪は、すべて赦されていることを何によって確信できるのでしょうか。罪のゆるしは、洗礼と関係します。使徒信条より後に作られたニカイア信条では、罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を、信じます、と告白されています。その根拠となるのが、次の聖句です。
すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 (使徒言行録2章38節)
あなたの罪は赦されていますか、と問われたら、犯したすべての罪は赦されています、と答えます。その理由は、洗礼を受けているからです。ただ洗礼を受けたからではなく、悔い改めて、主イエスを救い主と信じたからです。信じます、と言い表した時、罪が赦され、聖霊をいただいたのです。それは感情ではなく、聖書にそう書かれているからです。罪が赦される時、私たちの内側に変化が生じます。その例として、四人の男に運ばれて来た中風の人に、主イエスは「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言されました(マルコ2章5節)。あなたの病気は癒された、ではなく、あなたの罪は赦された、と言われたのです。しかし彼らが求めたのは病気の癒しですが、それは、罪の赦しによって生じました。神にとって第一の関心事は、罪の赦しです。神との関係の修復です。神と私たちとの断絶した関係を修復する(仲保者となる)ために、主イエスはこの世に人として来られ、十字架で死なれたのです。神のゆるしは、私たちのゆるしとは異なっています。神は、イエスの十字架によって私たちの罪をすべて赦してくださいました。私たちは相手を許すけれども、決して忘れ去ることができません。しかし、神の赦しは犯した罪そのものが忘れられ、神の目からは消滅しているのです。神の怒りと審判は、私たちの罪の上に下されますが、神はその罪をことごとく海の深みに投げ込まれます(ミカ7章19節)。何と幸いでしょうか。