19、私は聖徒の交わりを信じます (使徒信条)

聖徒とは聖なる者(申命記33章3節)、聖とは神のものとされることで、キリスト者=聖徒です。それだけではなく、聖なるものであるキリストとの交わりをも意味しています。信仰は火に例えられます。一本の薪が燃え続けるには、周囲に燃える薪(まき)が必要です。

私は大学時代、預言者エゼキエルに興味を抱き、その書を繰り返し読みました。そして、いつか彼に会ったらいろいろ尋ねたいと思いました。そこに聖徒の交わりが時空を超えて実現します。今同じ教会で交わっている兄姉だけでなく、過去のキリスト者たちとの交わり(聖書や書物が媒介になります)も与えられています。イエス・キリストを通して、あらゆる時代の聖徒との交わりが、私たちには開かれています。

それと共に、聖なるもの=キリストとの交わりも、私たちには与えられています。主の晩餐と呼ばれる、パン裂きです。聖餐と呼ばれますが、そこに於いて、キリストとの交わりがあり、その場に招かれているのです。それが礼拝ですが、コロナ禍によってオンライン礼拝が盛んになりました。説教や建徳を聞くことが中心になりますが、それだけでは得られないものがあります。それが、生けるキリストとの交わりです。勿論、聖書を通して語られる御言葉によってキリストとの交わりが実現します。そのことによって弱い私たちが、信仰と愛に於いて力づけられます。そうだとしたら、礼拝に出たくても出られない方々にオンラインの画面を通してでも、パン裂きの交わりに加わってもらえるには、どうしたら良いかと考えます。

聖徒の交わりとは、聖なる神との交わりでもあるのです。共に集まり、定められた礼拝の場に身を置くことは、そこで聖なる神キリストと交わり、キリストの衣の裾に信仰の手で触れることです。その時「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいた」とあります。主イエスの中に満ちている力を引き出した女性は、即座に癒しを感じました。これは聖書のお話ですが、今も起きると信じます。それなのに習慣に陥り、何となく漫然と過ごしてしまっているとしたら、大変申し訳ないことです。その反省が湧きます。それでも神は、変わることなく御自身を差し出されます。何という大きな恵みであり、交わりでしょうか。