18、我はキリストの教会、を信ず。 (使徒信条)
使徒信条の本来のテキストには、「キリストの」という言葉は出てきません。しかしすでに中世時代に、「公同の教会」という言葉は、公同=普遍を意味するカトリック教会を連想させていました。そうした誤解を避けるため、特にルターは使徒信条に手を入れ、公同の教会ではなく、キリストの教会という言葉に代えたのです。たとえ、私たちが目にする使徒信条には、「聖なる公同の教会」と書かれているとしてもです。教会はイエス・キリストの教会だからです。また、そうであらねばならないからです。教会がキリスト以外の誰かのものに、なってはならないからです。つまり教皇にも、民族にも、誰か人間のものに教会それ自体は属していないからです。徹頭徹尾キリストのものです。教会はキリストの体であり、キリストは教会の頭です。そして、身体の諸器官がそれぞれ違っていながらも、一つの命に結び合わされたのが教会です。一つとは、教派に分裂していないということです。
教会の事が「聖霊を信ず」に続いて言い表されているのは、偶然ではありません。教会が教会として誕生したのは、聖霊降臨日です。つまり、神の右にまで挙げられたキリストが、聖霊を信じる者ひとり一人に注がれた日です。それ以降教会は、聖霊の働きによって支えられているのです。聖霊は精霊ではなく、イエスキリストと同じ神格(人格)を持っておられる神です。
旅する神の民である教会は、あらゆる世紀を貫いてアブラハムの召命からイエス・キリストの再臨に至るまで及んでいます。教会は礼拝をする群れであると同時に、他の人への奉仕であり、内に向かうと同時に外へ向かいます。神の真理を宣教すると共に、隣人に対して愛の奉仕をします。教会はそれら両方の意味で神の住まいであり、神殿なのです。教会は、キリストが罪人たちである私たちと交わってくださる場所として魂のオアシスです。一週に一度、主の復活を記念する礼拝に出席するとき、聖霊を通して見えないキリストが触れてくださいます。制度的な教会とは対極にあるキリスト同信会で、私は毎週礼拝を献げています。努めて人間的な制度から離れ、聖霊の導きに徹底して従おうとしてきた在り方に共鳴しています。聖霊が主役になり、自由自在に働ける礼拝を待ち望んでいます。