17、聖なる公同の教会、を信じます。(使徒信条)

これまで、父なる神・子なるイエス・キリスト・聖霊なる神(三位一体の神)についての信仰告白が述べられました。それに続けて、その神を宣べ伝える働きをする教会が言い表されています。私たちは一般的に使われている「教会(教える会)」という呼び名ではなく、「集会(主の御名にまで集められる会)」という名称を使っています。言い方の違いはあっても、意味するところは同じと考え、教会の語を用います。

教会には、目に見える教会と目に見えない教会の2つがあります。聖書では教会は「キリストの体」と表現されます。それは、地上にある色々な教派に分かれた可視的な教会と、教派を超えた霊的な見えない教会です。では、冒頭の「聖なる公同の教会」は、そのどちらを指しているのでしょうか。公同=どこにあっても同じ。聖なる=神のものである、そのような教会が言い表されています。普通、教会と聞くと、目に見える教会堂や教派に分かれた地上の教会を連想します。私たちは地上にある、それぞれの教会に属していますが、それらを超えて、目に見えない霊的で真実な教会にも属しています。使徒信条が言う「聖なる公同の教会」とは後者で、目に見えない教会です。国や教派や制度の違いを超えて一つに集められた、霊的な教会です。そこにはカトリックも無教会もなく、多くの教派に分かれているプロテスタントの違いもありません。それが、一つに集められた真の教会です。

目に見える地上の教会は複数形で表されます。組織も礼拝の形も、置かれた地域もそれぞれ異なっているからです。他方、目に見えない霊的な教会、聖なる共同の教会は単数形で表されます。教派を超えて一つだからです。そうした見えない教会に繋がることが、キリストに繋がることです。使徒信条は、そうした霊的な教会を信じると告白しています。

地上の教会には問題が起きたり、誤りや不純なものが入り込みます。完全な教会は地上には存在しないからです。異端という同意できない教えも存在しています。そうした人たちは自分たちの群れだけが正統だと主張し、他を全て批判するので受け入れられません。いつも謙虚でいたいものです。教会はキリストの血によって贖われた聖なるものです(使徒20章28節)。そこに繋げられる者でありたい。