14、全能の父なる神の右に座しておられます。 (使徒信条)

 昇天された主イエスは、神の右に座されました。マルコ福音書に、「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(1619節)とあります。その意味は何でしょうか。ローマ書に、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(8章34節)とあります。昇天されただけでなく、神の右に座されたのは、私たちのために執り成してくださるためです。座し=一時的ではなく、永遠に続くことを表します。神の右とは、父神と全く同じ権威を持つことを意味しています。聖書では、右は善、左は悪を表しますが、場所的な意味での右左よりも 、主イエスが父神と同等であることを表しています。ただ、絵画では父神から見て右に座すお方として描かれています。

キリスト・イエスは神の右で、私たちを執り成す祭司の働きをされています。「イエスは永遠に生きておられるので、変わることのない祭司職を持っておられるのです」(ヘブライ7章24節)。もし、執り成し手がいなかったら、私たちは罪の中に滅びていました。罪の解決はなかったのです。祈る時、両手を上げると、顔も上を向きます。その時、霊の目で神の右におられるお方が見えるなら幸いです。殉教者ステファノがそうでした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエとを見て天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った(使徒7章55,56節)。天のイエスは神の右に座していられなく、立ち上がられたのです。何と感動的な表現でしょうか。ステファノは「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と、語りかけています。このことからも、父神と同じであることが分かります。

更に、使徒2章33節では、「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」と、ペトロが語りかけています。主イエスは、受肉、十字架、陰府下り、復活、昇天、そして、神の右に座し、信ずる者に聖霊を注がれたのです。今日は聖霊降臨日(ペンテコステ)ですが、それは十字架で罪の贖いを成し遂げられたイエスが、復活・昇天を経て、起きた出来事だったことが分かります。