12、三日目に死人のうちよりよみがえり、
イエス・キリストの十字架と復活、それがキリスト信仰の中心です。最も大切なこととして、挙げられているのも十字架と復活です。Ⅰコリント15章には、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです」(3~5節)と、記されています。ケファとはペトロのこと。12人とは12弟子です。ペトロを始めすべての弟子たちは、復活を信じませんでした。信じられなかったのです。それは不信仰というより、人としては当然のことでした。これまで死んで復活した人は、誰一人いなかったのですから。蘇生した人は何人もいますが、死んで三日も経ってから、よみがえった人は一人もいません。復活は単に、息を吹き返すことではありません。全く新しい命を与えられ、霊の体に変えられることです。復活されたキリストの体には、十字架につけられる時に受けた鞭による無残な傷跡は一切なく、両手両足と脇腹の傷跡だけでした。それは、復活の主を見ても信じられないでいる弟子たちに見せるためでした。
復活された主イエスは、弟子たちを始め、信じる者たちにだけ現れました。決してピラトや祭司長たちには現れていません。それはご自身を現わし示す目的がその人の内に臨在するためだからです。一番最初にケファの名前が挙げられているのは、彼が3度も主を否認し悔やんでいたからです。そうなる前に主イエスは「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、語りました(ルカ22章32節)。後に偉大な使徒となったパウロは、「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも(キリストは)現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と書いています(Ⅰコリント15章8-9節)。復活の主キリストと出会うことで、2人は変えられました。復活を信じるとは、そのキリスが現れてくださり、内住し、いつも共にいて下さいます。もし、キリストが復活されなかったなら、私たちの信仰は虚しく、私たちは今もなお罪の中にあります。しかし、主は三日目に死より甦られました。