10、十字架につけられ、死にて葬られ・・・(使徒信条)
最も大切なこととして、「キリストが、聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」と、あります(Ⅰコリント15章3、4節)。
キリストが十字架で死なれたのは、私たちの罪のためです。それを贖罪(罪の贖い)と言います。つまり、私たちの罪の身代わりとして死なれたのです。それが聖書の教える十字架の意味です。
礼拝讃美歌355番:♫主は命を我に与え 血にわが身を聖くなして 死と陰府の手より我を解きぬ わが罪ゆえ 君は打たれ わが不義ゆえ 主は砕かる 十字架の悩みは わがためなり いかなることもて われ応えし♫。イエスの十字架の死は、私を救うためだったのです。
人間には罪があり、その結果、死が人類に入り込んだのです。死の力は絶対で、死を免れる人は一人もいません。そして、愛する者の死を前にして、泣く以外に何もできないのです。シューベルトの歌曲「魔王」とは死のことです。病で苦しむ幼子に魔王が囁く、それをおびえながら父に必死に伝えるが、自然現象だよと慰める。医者の館の前に馬車が着いた時、息子は既に息絶えていた。このようなことは、いつの時代にも起きています。その死を破滅の王(新改訳・恐怖の王)とヨブ18章14節は呼んでいます。破滅と恐怖を招く、魔王こそ死だからです。魔王から幼い子どもを取り返したのがイエス・キリストです。
会堂長ヤイロの幼い娘が、今まさに死に瀕していました。彼は必死になって主イエスの許に来て、その足もとにひれ伏して、「どうぞ、我が家にお出でになって、手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と懇願します。それに応じてヤイロと一緒に進みます。ところが、途中で一人の女性の癒しに時間を取られ、幼い娘は亡くなったと告げられます。もうどうすることも出来ない、と誰もが思いました。しかしイエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と言われました。そして、娘を死から取り返します。なぜ、そのような事が出来たのでしょうか。「わたしは復活であり、命である」と言われたのがイエスだからです。死んだ者に命を与え、生きるようにできるお方です。