イエスが宣教を始められたときはおよそ30歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。 (ルカ3章23節)
イエスは30歳になるまで、公には宣教を始められませんでした。その宣教活動は3年半という期間でした。4回目と思われる過越祭を弟子たちと共に祝い、その翌日、十字架上で息を引き取りました。ある意味本当に短い年月でしたが、遺された影響は驚くばかりでした。公の働きは公生涯と呼ばれます。なぜ30歳まで、公生涯の働きをされなかったのでしょうか。おそらく、父ヨセフが亡くなった後、母や弟妹たちを養うために尽力されたと思われます。それと、祭司になれる年齢が30歳からだったことが関係しています。
主イエスの弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダで、妹も数人いますが、名前は記されていません。弟たちは復活のイエス出会うまでは信じていませんでした。しかしその後、兄としてではなく救い主として信じ、教会の中心的な働きを担いました。ヤコブとユダは手紙を書き、新約聖書の中におさめられています。家族伝道の難しさは、主も味わわれたことでした。日常を共にしていた故郷の人たちも同じでした。そのことをイエスは「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と,言われました(マタイ13章57節)。
公生涯の3年半、イエスは寝食を忘れて人々の必要に応えました。教えと癒しがそれで、「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ4章23節)と記されています。求めて来た者は皆、満たされたのです。触れた者は皆いやされた(マルコ6章56節)のです。そこで「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と言われたのです。そうした言動のすべてを集約したのが十字架の死と復活でした。そこに至るための公生涯だったと言えます。私たちの生き方の模範として、謙遜の限りを尽くして仕えられた3年半でした。それは礼拝讃美歌98番に、「食するひまも うち忘れて虐げられし人を訪ね 友なき者の友となりて 心砕きし この人を見よ」と歌われているとおりです。その生き様の根本にあるのが、父神への献身で、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られたほどです。ここに、主イエスの本質があります。私たちの伝えたいことは、この人の中に満ちています。だから、この人を見よ、です。