8、主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、
マリアは処女のまま、神の子を身籠ります。マリア自身「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と、天使ガブリエルに言っています。すると天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。…神にできないことは何一つない」と、答えます(ルカ1章34~37節)。この場面は「受胎告知」として、多くの画家が描いています。確かに、処女のまま妊娠・出産することは、かつて起きたことがない。生理的には有り得ない事。しかし、神にできないことは何一つない!天使から、そう断言されて、マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えます。理解できないとしても、言われた方を信じて受け入れました。わが身を委ねました。その時、聖霊がマリアの胎に宿ります。しかし神は、ご自分の思いを無理やり押し付けたりは決してなさいません。相手の承諾を得て、その人の内に入られます。そこに悪霊との大きな違いがあります。悪霊は不法侵入者です。
イエス・キリストの誕生については、マタイとルカ福音書が詳しく記しています。マタイはヨセフのことを中心に、ルカはマリアのことを中心にしています。そのどちらも、マリアの胎の子は聖霊によって宿った(マタイ1章20節)と記しています。それは罪が無いことをも意味します。なぜなら、人類の始祖アダムとエバが神に背き、エデンの園から追放された後で2人の子を出産しますが、罪は遺伝的に継承され、兄が弟を殺すという結果に現わされています(創世記4章)。ダビデは自分のこととして詩編51編7節で告白しています。「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」と。だから、結婚という男女の関係から生まれるのではなく、聖霊によって身ごもり出産する道を神は取られたのです。イエス・キリストが罪の無いお方であったのは、そのためです。処女降誕と言いますが、私たちには理解できない神秘ですが、旧約聖書の預言の成就だったのです。「見よ、おとめ(処女)が身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7章14節)。神が人となられる受肉は、有り得ないと思える道を通って来られることなのです。