5、私は天地の造り主、全能の父である神を信じます。(使徒信条)

 偶像を作ったり、礼拝することを聖書は禁じていますが、それは理に適っているのではないでしょうか。

例えば、作品に感嘆しながら、その作者には無関心だとしたら、失礼極まりないわけです。ところが、この自然界という作品を前にして、その美しさに感嘆しても、その造り主である神のことは考えもしない、としたらどうでしょうか。知恵の書13章1~3節に、

「神を知らない人々は皆、生来むなしい。彼らは目に見えるよいものを通して、存在そのものである方を知ることができず、作品を前にしても作者を知るに至らなかった。かえって火や風や素早く動く空気、星空や激しく流れる水、天において光り輝くものなどを、宇宙の支配者、神々と見なした。その美しさに魅せられて、それらを神々と認めたなら、それらを支配する主が、どれほど優れているかを知るべきだった。美の創始者がそれらを造られたからである。」と、書かれています。

聖書が徹底して偶像礼拝を禁ずるのは、作者である創造主を無視して、作品である被造物を神として崇拝することだからです。前述の知恵の書は続いて、
「もし宇宙の力と働きに心を打たれたなら、天地を造られた方がどれほど力強い方であるか、それらを通して知るべきだった。造られたものの偉大さと美しさから推し量り、それらを造った方を認めるはずなのだから。とはいえ、この人々の責めは軽い。神を探し求め見出そうと望みながらも彼らは迷っているのだ。(中略)だからといって彼らも弁解できるわけではない。宇宙の働きを知り、それを見極めるほどの力があるなら、なぜ、それらを支配する主を、もっと早く見いだせなかったのか」(13章4~9節)と、指摘しています。

わが国には「天然の美」(作詞:武島羽衣、作曲,田中穂積)があります。そこでは、自然の背後に在す神を明確に歌っています。天然の音楽として,空にさえずる鳥の声峯より落ちる滝の音、日本の四季を天然の織物として描き、それを手際見事に織られる神の尊しや、と歌っています。すべては神の御手の為せるわざだ、と。
人間の体の造りも、神の為せるわざであることを知ると、その見方が変わってきます。本当に精巧に造られているからです。人間には到底できないレベルの巧みさです。だから、冒頭の信仰告白「私は天地の造り主、全能の父である神を信じます」を言い表します。その神が、私たちの中で生きて働かれているのです。