4、我は・・・全能の父なる神を信ず。(使徒信条)

神は全能であること、そして、全能の「父」であることが言い表されています。99歳のアブラハムに、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」(創世記17章1節)と言われました。人間的には有り得ない(不可能)と思えたとしても、神にはできると信じられるのは、神が全能だからです。私たちに求められるのは、神への信仰です。アブラハムは自分も妻も年老い、子どもが生まれることは有り得ないと考えました。しかし神は、年老いた夫婦から、空の星のような無数の子孫が与えられる、と約束されていました。だから、わたしは全能の神である、と諭されたのです。翌年、100歳の夫と90歳の妻との間に、息子イサクが生まれました。

受胎告知の場面でマリアは、まだ結婚していないのに…、と天使ガブリエルに言います。そんなことは有り得ない、と。すると天使は、「神にできないことは何一つない」とマリアに言われ、その実例として、親類エリサベトの懐妊を告げます。だから神にできないことはない、と。そう言われたマリアは、自分の不信仰を恥じ、信じますと応えています。(ルカ1章38節)

神にできないことは何一つありません。しかし、できないこともあります。それは神の御性質に反する事柄です。神は嘘をつくことができません。約束されたことは不可能に思えても実現されます。また、気まぐれであったり、不公正であることもできません。贖いなしに罪を赦すこともできません。神に信頼する者を無視し、放置することもできません。できないと言うより、そのような不誠実な態度は決して取られないのです。だから、全能の父なる神を信じる、と言えるのです。問題になる私たちの信仰的な弱さは、自分を基準に考えてしまう所から出て来ます。私たちは約束しても守れないことがあり、嘘もつく、気まぐれであったり、いい加減です。だから、神もそうではないかと考えてしまうのです。そのため、「もし、できるなら」と言ってしまうのです。神の力を制限するのが不信仰。
イエスは言われた。「『できれば』と言うか、信じる者には何でもできる。」
その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9章23,24節)。
信頼して主に委ねる時、全能の神の力が働き始めます。