2、我は・・・父なる神を信ず。

聖書の神は私たちの父です。だから祈る時、「天におられる父なる神さま」と、呼びかけます。母をも内包する父です。厳格な父と慈愛に満ちた母の両面を、併せ持つお方です。そして、唯一です。誰にも父と母がいます。産んでくれた母は一人だけです。ある人が子どもに、「なぜ、君はたくさんいる女の人の中で、まさしくこの人だけを、お母さん、と呼ぶんだい」と質問してみよう。きっとこう答えるはず。「だってこの人が私のお母さんだもの」と。どんなに親切であったとしても、隣りのおばさんを「お母さん」とは呼びません。生みの母は一人だけだから。それが唯一ということです。母を父に置き換えて、信仰との関係で考えます。 

「なぜ、君は世の中にたくさんある神々の中で、聖書の神だけを自分の神として信じ、天におられる父、と呼ぶんだい」と尋ねられたら、前述の子どものようにこの神だけが私の父だからです、と答えます。ただし正確に言うなら、父なる神はイエス・キリストの父なる神なのです。何故なら実子は神の御子イエス様だけだからです。私たちは実子ではなく、養子だからです。しかし、まるで産みの苦しみをした実子であるかのように、聖書は記しているのです。
申命記32章18節:お前は自分を産み出した岩を思わず、産みの苦しみをされた神を忘れた。
神はあなたのために産みの苦しみをされた母のようだ、そこまでしてくださる神を忘れていると諭しています。父神の内面の母性のあることが示されています。これが、モーセ最期の歌の一節です。

旧約聖書の神は厳格で、情け容赦のない父なる神と受け取られがちですが、それは表面的な浅い理解で、父神の内面には、限りない慈愛と優しさが溢れています。それを現わされたのがイエス・キリストです。自分を犠牲にしても愛して止まない愛、それが十字架の愛です。そして、その愛を書き記したのが聖書です。

世の中には多くの宗教があり、神と呼ばれるものも沢山あります。しかし、天の父神、アバ父と呼べるのは、イエス・キリストの父なる神だけです。だから、我は・・・父なる神を信ず、と言い表します。そして親しみと信頼を込めて「アバ父よ」と呼び祈ります。