1、我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

使徒信条はキリスト信仰が要約されたものですが、「私は信じます」と始まっています。私たちの毎日は、何かを信じてなされています。明日も生きられると信じて、今日を生きています。特別な事ではなく、それが当たり前だからです。しかし、命の保証など誰もできないのです。本当は目に見えない神に守られ、支えられているからなのです。「本当は」というのはそれに気づくかどうかで違いが出るからです。時々、耳にする言葉、「おかげさまで」は「神仏的な加護や助けを受ける」という意味の「お陰」に「様」が付いた言葉が語源です。自分の力や頑張りだけではなく、もっと大きな神の見守りと助けがあった故なのです。 問題は、その神がどのようなお方なのかです。わが国は多神教で、神々は八百万(やおよろず)もいると言われます。動物、木々、偉大な人間も神として崇められています。そんな中で、冒頭に言い表されている聖書の神に目を向けたいと思います。

50年以上前に出版された『あなたの神は小さ過ぎる』という本を思い出します。聖書の神は無から有を生み出す偉大な神なのに、その神を自分の理性の中に閉じ込めてしまい、理性で理解できる範囲に収めてしまうのです。神様は偉大だろうけど、これほど難しい問題は神でも解決できないと思ってしまうのです。そして、最悪の事態を想定してしまうのです。そのような不信仰を指摘したのが、前述の本の表題なのです。そんな者に向かって預言者イザヤは語りかけます。
お前たちはわたしを誰に似せ、誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる。目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。(イザヤ4026節)

このお方が、天地の造り主、全能の父なる神です。聖書の神は、壮大で無限の宇宙を創造された全能の造り主であるだけでなく、もっと身近な父なのです。父は母をも内包する親を意味します。私がどんなに出来が悪かろうとも、愛をもって支え、養って下さいます。
そして聖書には、奇跡の事例が数多く出ています。そのため多くの人は、そんな奇跡は有り得ない、と躓き疑います。しかし、偉大な全能の神に出来ない事はないのです。