わたしはシャロンのばら、野のゆり。 (雅歌2章1節)

これは誰の言葉でしょうか。新共同訳では、主人公のおとめの言葉だとしています。しかし讃美歌512番では、♫イエス君の麗しさよ、あしたの星か谷のゆり♫と、主イエスの言葉としています。

シャロンは地名で、そこに咲くばらとありますが、これはサフランとかアネモネの類いです。私たちがばらの呼び名から連想する花とは違います。強いて言えば、野ばらです。野のゆりも、私たちが連想する百合の花ではなく、野や谷に群生して咲く花です。つまりどこにでも見られる花、野の花です。私は特別な花ではありません、と言い表したおとめの言葉なのです。

イスラエル旅行の折、バスがとある野原で止まりました。ガイドが野原に咲いている赤い花を指さし、「これがばらです。主イエス様が野の花と話された花です」と言いました。本当に注意して見ないと見過ごしてしまうような花でした。よく見ると美しい花ですが、際立った美しさはありません。おとめは自らを、そんな花に例えたのです。すると若者は応答します。

おとめたちの中にいるわたしの恋人は
茨の中に咲きいでたゆりの花。(2章2節)

あなたは普通の、どこにでもある花かも知れないが私の目には特別な存在、と返した言葉です。

雅歌から受け取ったメッセージは、お互いを美しいとほめ合っていることです。美しい=イザヤ43章4節 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(新改訳)。 人の目ではなく、神の目にはそのように見えているのです。だから、わたしは黒いけれども愛らしい(1:5)と言えるのです。そして主イエスがどこにでもある野の花を指して、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の1つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」(マタイ6章29,30節)、と 言われた意味をかみしめたいものです。

棘のある茨とは、この世のことです。そのような中でも、私たちは香り良きゆりの花でいたいものです。