あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。(テトス2章1節)

牧会書簡と呼ばれるのが、テモテとテトスの手紙です。そこだけに冒頭のように健全の字が何回も用いられています。健全は健康とも訳せます。聖書の教えは不健全や不健康ではない。それを信じ受け入れる人を健全で健康にします。だから福音(良い便り)なのです。愛に於いても、健全か不健全かが分かれます。人に隠さねばならない愛は歪んでいます。しかし現実には存在し、当人だけでなく周囲も苦しみます。それに対して、雅歌に描かれている愛は健全で明るいです。神の愛は、私たちを健やかで健全にします。

雅歌という表題が付けられた意味ですが、雅(みやび)は日本の伝統的な美的理念の1つで「優雅さ」または「礼儀正しさ」として、時には「甘く愛する人」と解釈されます。最高の優美さ、博識さ、及び、物の哀れを示します。そこには健全で健康な美が存在します。

雅歌の主人公シュラムのおとめ(個人名は記されていない)が美しかったかどうかは定かではありません。リベカ(創23:16)やエステル(2:7)のようには描かれていないからです。しかも、私は黒い(1:5)と言っています。それにもかかわらず、「あなたは美しい」と呼びかけられています。「あなたは美しい。あなたは美しく、その目は鳩のよう」(1章15節)だと。鳩は聖霊の象徴です(マタイ3:16)。容貌や外見の美しさよりも内面の美しさで、気高い美です。神の目には私たちはそのように映っているのです。

「あなたは美しい」と言われたシュラムのおとめは、「恋しい人、美しいのはあなた わたしの喜び」(1:16)と返しています。主イエスほど美しい方はいません。崇高な美しさです。聖書はイエスの外見を、全く描いていません。けれども雅歌から、極めて美しいお方であると言えます。その主の御前に出ると、魂を奪われる美しさと聖さに圧倒され、いかに自分が黒く汚れているかが分かります。そのお方が、「あなたは美しい」と言ってくださるのです。だから、おとめのように、「わたしは黒いけれども愛らしい」(1:5)と言えるのです。墨のように黒い罪人を、自らの血潮によって雪のように白くして下さるお方こそ主イエスなのです。