わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない。
主が許してくだされば、しばらくあなたがたの ところに滞在したいと思っています。
(Ⅰコリント16章7節)
コリント書は論文ではなく手紙です。それが上記の挨拶文で分かります。著者パウロはこれからコリント教会を訪問しようとしていて、マケドニア経由で行きたいと考えています。伝道旅行になります。旅行の時は誰もが計画を立てます。どういう経路で、誰と一緒に行くかなどです。そのことが、16章1~12節に記されています。冒頭の聖句は、その中の1節です。注目したい言葉は、主が許して下されば、です。
旅行の計画を立てる時、計画通りには進まない場合のことを想定しているでしょうか。天候や体調は悪化することもありうるからです。そうしたことも含めて、主が許してくだされば、とパウロは書きました。どんなことも、そのように考えたいものです。何でも立てた計画通り、思い通りに行くことを願いますが、最後の主権は神に帰すべきだからです。そこでヤコブも次のように勧めました。
よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。(ヤコブ5章13~15節)
主の御心=主がそれを願われるなら、即ち主が許してくださるなら、あれをしようこれをしようと言うべきなのです。それは旅行だけではありません。何かを計画する時も、同じように言いたいものです。
コロナは私たちに、そのことを示してくれました。計画通りにはいかないことが多々あったからです。それは謙遜を学ぶのに役立ちます。謙遜とは自分の思いや願いよりも先に、神の許しを求める姿勢だからです。どんな小さなことでも、神のお考えを祈り求める謙遜さを持ちたいものです。神の恵みと助けなくしては、何事も成し得ないからです。冒頭の聖句から、そのことを教えられました。その模範は主イエスで、ゲッセマネの園で「父よ、…私の願いどおりではなく、御心のままに」と、祈られて、自分の願いよりも主の御心を第一にされました。
|