最後の敵として、死が滅ぼされます。 (15章26節)
復活は死に対する勝利です。どんな人も死の前に屈服させられて来ました。ジョン・ダンの詩に「死よ、驕(おご)るなかれ」があります。その最初と最後を引用します。
死よ驕るなかれ、お前が強く恐ろしいと誰かが言ったかも知れないが、お前はそうではないのだから。・・・・・
一眠りが終われば、私たちは永久に目覚める、死はもういなくなる、そして死よ、今度はお前が死ぬのだ。
パウロは、ホセア13章14節を引用して宣告します。
死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。(15章54,55節)
では、死はどこから来たのでしょうか?
死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。(15章21,22節)
アダムが犯した罪の結果、死が支配者として君臨します。罪の解決がなされない限り、死は暴君・魔王です。ラザロの死を前にして泣くしかできない者らを見て、主イエスは憤りを覚えます(ヨハネ11章33節)。何に対する憤りでしょうか。死の背後にいる悪魔に対する激しい憤りです。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷状態にあった者たちを解放なさるためでした(ヘブライ2章14,15節)。主イエスの十字架は罪の贖いであるだけでなく、罪と死の背後にいる悪魔の頭を打ち砕くものでした。創世記3章15節の預言どおりです。
とはいえ、今も死は力を振るっているように見えますが、主の十字架と復活によって既に打ち破られています。死と悪魔は既に、力を失っているのです。たといそうでないかのように思えようとも、私たちはキリストによって既に勝利者なのですから(ヨハネ16章33節)、悪魔に惑わされてはなりません。
2月24日から始まったロシアによるウクライナへの侵攻の背後に、非人道的で残虐に満ちた悪魔の働きを見てしまいます。ウクライナのゼレンスキー大統領が最初に発した、「ロシア軍は多くの物を破壊しているが、我々の信仰は破壊できない」が忘れられません。