キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなた方の中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。         (Ⅰコリント15章12節)

 コリント教会には、キリストの復活を信じない人がいて、そんなことはあり得ない、と言っていたというから驚きます。そこでパウロは、冒頭のように問いかけています。当時のギリシャ哲学に影響されていたことが考えられます。肉体の復活はない、と教えられていたからです。そうした教えに染まっていた人が、コリント教会には何人かいたようです。その人たちの影響を考え、パウロは死者の復活を論証しているのです。

「死者の復活がないとしたら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、信仰もむなしい。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです.死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのならあなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」(15章13~17節)

しかし、死んだ人間が霊の体に変えられて復活することを、誰が信じられるでしょうか。これまで誰も、そのように復活した人はいません。だから、信じられないのが当然なわけです。4福音書は、主イエスの復活を記していますが、弟子たちは信じられなかった、復活の主を見ても疑う者もいたと記し、いかに復活が信じ難かったかが分かります。その意味でも、復活が信じられるのは、神の大きな恵みだと気づきます。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。(20節)
 初穂は、次に続く穂があることを意味します。私たちも復活するからです。障害や不治の病気を持ったまま死んでも、新しい栄光の体に変えられて復活します。そこに、希望と喜びがあります。私は大学生の時、ハンセン氏病で手足他が変形したキリスト者たちから教えられたのが、復活信仰でした。やがて復活し、今とはまったく別の栄光の体に変えられることを信じ、その日を待望しながら天に召されて行くのを見たからです。