神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。 (Ⅰコリント14章33節) 

コリントの教会が抱えていた問題は多岐にわたっていましたが、要するに、集会内での礼拝等が無秩序で混乱していたのです。聖書の神は秩序の神です。旧約の民数記の最初の数章にそのことが示されています。秩序の国語的意味は、①物事を行う場合の正しい順序②その社会・集団などが、望ましい状態を保つためのきまり。では、どんな問題で秩序が乱れていたかですが、11章では、礼拝での女性のかぶり物について、男と女の立場と関係について、主の晩餐(パン裂き)と愛餐との混乱が取り上げられています。12章では賜物の違いに於ける兄姉相互間の批判が、体の器官(目と手、頭と足)に例えられています。その根本原因は愛の不足にあるとして、13章で愛が説かれています。続く14章では、礼拝に於ける異言と預言の混乱があって、異言を語る人が導きのまま自由に語っていたことが推測できます。異言は解き明かしが無ければ意味不明です。そこでパウロは14書26~40節で、集会の秩序について記したのです。「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」(26節)。

当時のコリント教会には、定まった礼拝プログラムは無かったと思われます。礼拝順序を記した週報もなかったでしょう。もしそれがあれば、混乱は起きなかったはずです。もしかすると、敢えて明文化をしなかったのかも知れません。それは、聖霊の自由な働きかけを妨げないためです。しかし、それはいつまでも続かなかったようです。教会制度や教職制度が確立するにつれ、そうなって行ったと考えられます。どちらが良いかではなく、秩序正しくあることをパウロが書かねばならなかった混乱を、どう理解するかです。

冒頭の聖句はこうした文脈の中で書かれています。そして14章は、「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」(40節)と、締め括られています。そうしたコリント教会の状況は、今の私たちと密接に関連しているように思われます。