わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。(Ⅰコリント13章12節)

 この時代の鏡は青銅製で、私たちが使っている鏡とは大きく違います。はっきりと見えるか、ぼんやり見えるかの違いがあります。まだガラスの鏡は造られていなかったからです。それで冒頭の聖句のように「鏡におぼろに映ったものを見ている」と、あるのです。それを神知識の例えに用いました。また、幼子を例にして、幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた(11節)と、述べています。誰にも幼子の時代がありますが、成長と共に理解力が増します。

私たちの神知識も同じです。神を信じ、聖書から教えられながらも、今なお「おぼろ」にしか分かっていません。だがそのときには、顔と顔とを合わせて神を見ることになります。百聞は一見にしかず(諺)と言われます。ヨブが最後に口にした言葉は、「あなたのことを、耳にしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(ヨブ42章5節)でした。ヨブはとてつもない苦難によって、心も体も破れ果てました。その破れ口から、十字架のキリストが見えたのです。その時、知っていると思っていたが、実は、何も知らなかったと分かったのです。そして、塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めました(42章5節)。

わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(Ⅰコリント13章12,13節)
ぼんやり朧(おぼろ)に→はっきり見える、間接ではなく直接(顔と顔を合わせて)知る、のです。神にはっきり知られているように、私も神をはっきり知るときが来ます。はっきり知られている、とあります。神を知る前に、既に知られているからです。そして、神と顔と顔を合わせて相見るその時、信仰と希望は満たされます。しかし愛は、更に増し加えられ、絶えることがありません。神の本質は愛だからです。そして神の愛こそが私たちの救いの源、泉だと気づかされます。この愛に生きる道こそ、最高の道(生き方)なのです。