あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。(Ⅰコリント12章31節)

 愛は才能ではなく賜物です。才能は特定の人にだけ与えられるものですが、愛はすべての人に与えられた賜物だからです。ただし、賜物は活用すればするほど成長します。タラントンと同じで、神はその賜物を用いることを願っています。どのように用いるべきかについて、次の2つの言葉に示されている愛に生きることです。その言葉とは、Sympathy(シンパシー)とEmpathy(エンパシー)です。

Sympathyは、共に+苦しむの合成語で、相手に共感できる愛です。12章6節に「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」とあります。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣ける(ローマ12章15節)愛です。それがキリストの愛です。真実の友となり、いつも共に居てくださるキリストの愛です。

Empathyは、相手の立場に立って考え、感情移入できる愛です。「他人の靴を履いてみる」と言い替えられます。たとえ自分が賛成しない人、意見が違う人であっても、その人の立場になって知ろうと努めること。共感するというより、意見の異なる相手を理解しようとする愛です。みんな違って、みんないい(金子みすゞ)のです。意見や考え方の違いで対立したり、分裂することが何と多いことでしょう。

愛は最高の道=生き方で、行動が伴う必要があります。しかし、私たちの現実は行動が伴っていません。愛が足りないのです。だから、愛を熱心に求めるよう勧められています(冒頭の聖句参照)。最高の道である愛は賜物の中で最大の賜物です。その追い求め方が前述のSympathyとEmpathyを行動に移してみることです。

キリストの愛がなければ、「どんなに多くの知識があろうとも、信仰の奥義を知り預言したり、異言で天使の言葉を語れたとしても、無に等しい。全財産を貧しい人に施したり、わが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ無に等しい」(13章1~3節)と言い切っています。これは極端な言い方ですが、自分が中心にあって自己表現である愛の行動は、たとえ人からは多くの称賛を得たとしても、神の目には無に等しいのです。行動の中心は自分ではなく、キリストであるべきだからです。