あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 (Ⅰコリント12章27節)
キリスト者の共同体である教会は、キリストの体と呼ばれます。体は人体で、それを例に用いています。植物でも動物でもなく、私たちの体を例に用いたのは極めて適切です。パウロは12章で、それぞれに与えられている賜物について述べ、賜物が違っているのは一つの体が多くの部分から構成されているからです。
手、足、耳、目を擬人化して、足が「私は手ではないから、体の一部ではない」と言っても、体の一部でなくなりはしない。同じように、耳が「私は目ではないから、体には属さない」とは言えません。どの部分も、無くてはならないものなのです。それなのに、互いに批判し合って「あんな人は居なくても良い」と言い合っていたのです。コリント教会は内部分裂していました。初代の教会に於いて、既に分派状態が芽生えていました。そこで、「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」(1章13節)と譴責しています。
ロボットは各部分がそれぞれ部品化され、壊れたら同じ物と交換します。キリストの体である教会はそれと同じではありません。有機的だからです。各部分が互いに、密接に関連し合っていて、一つの器官が壊れると、それを補おうとする器官が自然に出て来ます。脳が各器官に指示や命令を出すからではありません。各部分がお互いに助け合い、補い合う。それが有機体です。無機体であるロボットとの違いです。いつ読んでも感銘を受けるのが、次の聖句です。
頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです(21、22節)。
劣った部分,足手まといな人を部品交換するように捨てるのではなく、かえって必要と受け止めるのです。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられます。一つの部分が苦しめば共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。そこに有るのは愛です。だから、続く13章では、愛が説かれているのです。それが、キリストの体である教会です。
キリスト同信会の五十嵐健治兄が『青年兄姉に告ぐ』の中で、「われらの集会は団体ではない」と語られたのは、「人間的・無機的な組織ではない」と言い換えられます。キリストの愛によって有機的に「主の御名にまで集められたもの」だからです。