わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち・・・。   (Ⅰコリント11章23節)

 コリント教会には幾つもの問題がありました。内部分裂、近親相姦をしている兄弟の放置、礼拝でのかぶり物の扱い等です。そして、愛餐と聖餐(パン裂き)に於ける混乱がありました。愛餐とは持ち寄りの会食で、教会内での食事です。それに続いてユーカリストと呼ばれる、聖なる記念式が行われていました。聖書には「主の晩餐」と記されています。「聖餐」の語は聖書にはありません。一緒に食事をする愛餐と、それに続くユーカリスト(パン裂き)はセットになっていました。ユーカリストとは感謝です。主イエスが感謝の祈りを献げてから、パンを裂かれたからです。

主の死を記念するパン裂き(主の晩餐)は、礼拝の中心でした。私たちは十字架の御死を覚え、感謝する礼拝に、毎主日、招かれています。それに応えて主を慕い、主を崇め、主を讃えるために集うのです。そして、主の御体と御血にあずかります。そうしたことは冒頭の聖句のあるように、パウロ自身から出た教えではなく、主から伝えられたものです。使徒伝承と言います。福音が、その内容です。15章3節に、最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち・・・とあります。キリストがわたしたちの罪のために死なれたこと、その後三日目に復活されたことです。更に主の再来(再臨)を待ち望んでいることです。そうした福音の全内容を覚えるのが、パン裂きである主の晩餐です。

コリント11章17~22節には、ほめるわけにはいかない混乱が記されています。そんな状態では、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならないのです、と警告しています。当時の状況は想像するしかありませんが、酒に酔っている者が居たり、ばらばらに食べているので空腹の人さえ居たとあります。このようなことは、今の私たちには考えられないことですが、他人事ではないと思います。毎主日行われていますと、つい狎(な)れてしまう危険性を常に覚えます。私自身どれほど主イエスの御心を理解して臨んでいるだろうかと問われます。パウロは私たちにも、「そんな状態では、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならない」と、警告しているのではないでしょうか。